SMプレイに興じる男女。そもそも彼らがSMの世界に目覚めたきっかけは何でしょうか? 昔と違って1960年代以降からは、様々な映画や雑誌、マンガなどでSMプレイを描写されるようになり、それらは女性でも容易に目にする事が出来ました。有名女優やモデルが写真集や雑誌のグラビアなどで緊縛姿のような艶かしい写真を披露したりする事もありました。 こうした女性でも比較的抵抗なく受け入れられるSM的なビジュアルが増えた事により、その美しさに憧れを抱き、そこから次第にSMの世界に興味を持っていった女性も少なくありません。 また、根本的な要因として、多かれ少なかれ人間には、特に女性には基本的に被虐願望が備わっており、また男性には支配願望が潜んでいるという事実もあります。これらは殆どの人が顕在化することなく、内に眠ったままになっていうのですが、元々内在しているものなので、何かきっかけがあれば、その願望が顕著に表れる事も十分あるわけです。 もちろん、性欲が顕在化し始めた頃から既にこうした傾向が強く見られる人も大勢いるわけで、そういう人たちは「きっかけ」以前に最初からSMに目覚めていた人という事になります。 最後に挙げられるきっかけが、「セックスのマンネリ化」や「カップルの倦怠感」です。こうした事は多くのカップルや夫婦間で起こりがちな事です。これらを打破する方法を模索しているうちに、SMプレイにその活路を見出すようになるわけです。
セックスは、男女間の恋愛における究極のコミュニケーション手段と言えるでしょう。有史以来現在に到るまで、「セックスよりも男女間がお互いを身近に、密接に感じあえるコミュニケーション手段はこれだ」と断言出来るものを提言し、証明出来た人はいません。 しかし、そんなセックスも残念ながら「飽き」が来てしまうものです。もちろん常に相手を変える事が出来れば、そういう事も免れるかも知れませんが、人間の社会では常にコロコロと恋愛の相手を変える事は容易ではありません。特に結婚して夫婦となった場合、基本的にそう気軽に、安易に相手を買える事はほぼ不可能です。 何故、飽きてくるのかというと、セックスは所詮、肉体的な快感でしかないからです。そして得られる快感の種類も常に同じです。その快感の度合いが高いか低いかの違いはありますが、種類としては常に同種のものでしかありません。そのいつも同じ種類の快感であるセックスを、いつも同じ相手と行っていれば、飽きがきるのも当然と言えます。 しかし、SMプレイは違います。SMプレイで得られる快感は究極的には精神的なものです。「SMとは脳で感じるもの」と言われるぐらいなのです。 人間の精神(脳内と言ってもいいですが)の世界は無限です。物理的な快感ではなく、この無限である脳内で感じる快感なので、SMプレイは常に同じ相手と行っていても飽きてくる事がないのです。同じ一つのSMプレイでも、しばらく続けていると、また新たな別種の感覚を覚えたりするものなのです。 セックスが精神的な快楽を得られるものにならない以上、SMの世界はセックスよりも優れたものと言えるかも知れません。
ノーマルな人間の中には、M、つまりマゾな性癖について理解に苦しむ人もたくさんいるでしょう。 人は例えば仕事などで、理不尽な状況に陥ったり、苦痛や我慢を伴う状況に自分が置かれた際に、そんな状況に耐える自分を自ら愛おしいと感じる「自己陶酔」の心境が芽生えるものなのです。 つまり、人は誰しもが多かれ少なかれ、被虐嗜好的要素を持ち合わせていると言えるのです。その傾向が極端に顕著な人だけが、「Mの人」として顕在化しているわけです。 ですから、SMプレイというと、一見、「S=相手をいたぶったりしていればいいから楽、M=相手にいたぶられる事に耐えなければいけないから苦痛」と考えがちですが、これは大きな間違いです。 M側の人が何を求めているか、つまり何をすれば相手にとっての「被虐行為」となるのか、を常に考えなければならないという点において、実はS側の方が難しく、Mの方はただSから満足のいく被虐的行為を待っていればいいだけであり、精神的に受身の立場なので楽なのです。そういう意味ではSの方がサービス精神を求められ、Mの方はワガママと言えるかも知れません。 このように、Mの人というのは「ご主人様からこんな仕打ちを受けて悦ぶ自分」そして、「こんな仕打ちに耐える自分を見て悦ぶご主人様」に対して陶酔感に浸り、それが快感となるわけです。つまり、Mの人=「自意識過剰のナルシスト」と言えるでしょう。
S、つまりサドというと、「他人を虐待して喜ぶ性質一般」を指すような意味で認識が広まっていますが、性行為におけるSというのは本来、そういう単に暴力的、加虐的な性質があればいいというわけではありません。 真に性的な意味でSの人というのは、相手をいたぶったり、辱めたりするだけで満足を得ているのではなく、その行為によって相手が悦び、快感を得ている事が実感出来て、はじめてS側も満足感を得られるのです。つまり、Sにとっては、加虐行為を純粋に苦痛としか感じられない、通常の精神の持ち主では、満足の行く性行為は成立しないわけです。 しかし、一見通常の精神の人も、その多くは、潜在的に多かれ少なかれ「被虐的嗜好」を持ち合わせています。その被虐的嗜好性の強い人間を見つけ、それを引き出す事によって、被虐を悦びと感じられる人間、つまり自分にとって納得のいくM気質の人間に育てる事が可能なのです。これが「調教」です。 このように、Sの人というのは、単に相手をいたぶったり、辱めたりする事で快感を得られるのではなく、それによって相手も快感を得られなければ性的満足が成立しないわけですから、相手、つまりM側の人がどういう被虐に悦楽を感じるかを、常に考え、それに即して加虐行為をしなければならないのです。 そういう意味では、俗に「SはサービスのS」と言われるように、Sの加虐行為というのは、実はサービス的行為の側面が多分にあるのです。行為自体は相手をいたぶったり辱めたりする行為でありながら、それが相手にとっての「サービス」でなければならないというわけで、非常に高度なテクニックや知識、経験が要求されるのが、Sの人なのです。